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ウェラー卿コンラートは自室のドアを閉め、誰にも聞こえぬようため息を吐いた。眞魔国国王が地球へ戻り、長い夜が明け漸く次の朝が来た。
王が眞魔国で過ごす間、コンラートにとって主を起こしにいくのは日課であるが故に、途切れた瞬間は、彼に物足りない気持ちを与えるのだろう。眞魔国に君臨するまでの十五年間は満たされることはなくても、待っていることすら楽しみのひとつでしかなかったというのに。自嘲にも似た笑みを浮かべて辺りを見回す。ユーリがいない城の廊下はしんと静まり、温度を失ったかのようだ。
そんな中、高い天井に響く歩幅の広い靴音が、傍まで来て立ち止まった。
「おや、どうかしましたか」
慣れたバリトンに振り返れば、想像していた通りの人物が濃い灰色の髪をなびかせ、磨き上げられた床を鳴らして歩み寄っていた。いつもと変わらぬ装いで、いくつかの書類や本を抱えている。敬愛する人物がいない今汁も少なめで、幼い頃にコンラートが憧憬を抱いた彼と殆ど変わらない。とはいえ目尻や鼻の先が赤くなっているから、昨晩は泣き明かしたであろうことは容易に連想できた。
「いいや、なんでもない」
ギュンターは肩をすくめた愛弟子を、子の成長を見守る親のような表情で見つめて共に足を進める。ユーリだけが知らない静寂に包まれたひとときは、この先も彼だけは知ることはないのだろう。
「陛下が地球へ行かれると、城はとても静かになりますね」
「ああ、きっと誰もがそう思ってるよ」
コンラートがシマロンについていたことを考えると、また、ユーリが眞魔国を離れていた期間を考えると、血盟城で共に過ごした時間はとても短い。それなのに強く染みる寂寥は、心や身体に色濃く刻み込まれているからだ。さながら極彩色の光を放っているかのように鮮やかで、どんなものにも代え難い瞬間。それはウェラー卿だけではなく、血盟城にいる者すべてが感じていた。
何の打算もなく入り込んで人々を癒し、笑顔を与えていく。グレタ姫との話し声が聞こえると城の雰囲気は殊更明るくなり、まるで色づいたかのように活気が出た。太陽のようなお方だ、と呟いてその姿を浮かべる。誰に向けたわけでもない呟きは、誰に聞かれることなく空間に溶けた。
地平に沈んでも尚その色を雲に残していくように。主が不在の城に残った光は皆の心にとどまり、この世界にいない日々は酷く味気ない。
渡り廊下の窓から外に視線を移し、青々と茂る草木を見つめた。まだたった数時間この世界にいないというだけだというのに、数日にも数週間にも思えて溜め息を吐くと、隣の王佐が苦笑した。
「何を溜め息など吐いているんですか。老人でもあるまいし」
「そうは言ってもギュンター。陛下から見れば俺は十分お爺さんだよ」
「たかだか百歳やそこらで老人面などするんじゃありません」
「そりゃ失礼」
地球帰りを思わせる仕草でかつての師に謝ると、正面に目を向けたままで菫色の瞳を細めていた。そこに浮かぶのは、先ほどと全く変わらぬ微笑だ。
長い睫毛が顔に影を作り、瞼を伏せる。
「でも、あなたも随分成長したものですよね。剣を交えたとき、そう強く感じました」
「いつの話だ?」
「シマロンの……宿の小食堂でのことです」
忘れてしまいましたかと、少し前まで大シマロンの使者として接さなければならなかった教え子に肩を震わせて笑う。優秀な補佐官が全権特使の役目を忘れ、一人の魔族としてコンラートに斬りかかったときのことだ。誰よりも深く魔王に忠誠を誓ったはずの男が国を、そして王を裏切ったことに感情的になっていたのだろう。
本気で斬り合っていたとばかり思っていたコンラートは、眉の傷を僅かに震わせた。人の血を知らぬ剣と、数分前までその血を吸っていた剣は、ユーリが止めに入らなければどちらが倒れ伏すことになったのだろうか。
「まさかあのとき、フォンクライスト卿にそんな余裕があったとはね」
「いいえ。あなたが寝返ったのだと動揺してしまうくらいには、余裕なんてありませんでした。あのとき私は本気でしたよ」
息を漏らす麗人を、ウェラー卿は足を止めぬまま横目で見た。魔王を前にして滅多に見せることのない穏やかな表情は、彼のよく知る教官だった男だ。
「あなたが心の底から陛下に背くはずがないのだと、あとになって漸く気付きましたが」
「それは……買いかぶりすぎていないか?」
銀の虹彩を僅かに揺らしたコンラートが硬い声を出すが、過大評価ではないことを城にいる誰もが知っていた。現魔王陛下は国民の全てがこうべを垂れ膝を折り敬う相手だが、彼はユーリが国主だから傍にいるわけではない。
くすりと微笑んだ側用人は何も応えずに、執務室のドアの前で立ち止まった。ふわりと長い髪を揺らして、ウェラー卿が進むべき方向に目をやる。
「さあ、あなたも早くお行きなさい。皆が待っているのでしょう」
「ああ」
外へ出て兵舎へ向かいながら、空を見上げる。爽やかな風が吹いて、木々がざわめいた。澄み渡る青に真っ白な雲が浮かび、東には陽光が輝いていた。
眩しさに目を眇め今はいない人を思う。
その笑顔があるだけで、誰よりも幸せな気分になれた。
――――おかえりなさい、陛下。
そう言える日が、早く来ればいいのにと。
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