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王としての執務で、一番気が重いのは謁見だ。
真っ赤なマントを羽織り、高い壇上に設置された玉座に座って、恭しくこうべを垂れる者を見ているのが苦手だと表すほうが正しいのかもしれない。
これなら山積みになった書類のサインのほうがずっと気楽だと漏らせば、いつも傍にいる護衛の『これも執務のひとつですよ』という囁きと、摂政の唸るような怒声が飛ばされるだろう。
魔王に就任してから、もう何年が経っただろうか。高校を卒業し、大学に進学するか会社に勤めていてもおかしくないほどの月日が過ぎていた。数年前までは全てをグウェンダルに任せ世界中を飛び回っていたが、今では執務と勉学に励む毎日だ。
眞魔国に戦争は無くなった。だが、そういった法律を作っただけとも云う。国民の理解を得られはしても、本当に浸透するにはまだまだ時間が必要だろう。
常ならば脱走に手を貸してくれる保護者は微笑むだけで、此処まで来てしまえば逃げられるはずもない。
高い天井を見上げながら、数日前のことを思い返していた。
その日の分の執務を終わらせ部屋でぐったりしていたところに、名付け親がホットココアを差し出して微笑んだ。
―――シマロンにいた奴隷達は、ベネラの先導により解放された。
さりげなく告げられたのは、久しく聞いていなかった名前とこれ以上ない朗報。喜びと賛辞をすぐに本人に伝えられないもどかしさに、身軽だった少年時代を少し羨んだ。
ついに、彼女はやり遂げたのだ。元奴隷への差別がすぐになくなるわけではない。それでもその一歩を踏み出すきっかけを作るということは、容易くない。
執務さえ、否、謁見の予定さえなければベネラの元へ行ったのに、と嘆息した。
「ユーリ、もう少しだけ我慢して。次で最後ですから」
「わかってるって」
屈んだウェラー卿がそっと耳打ちをしてきて、椅子の背にもたれ掛かる。謁見が二人重なってうんざりしていたのを咎める風でもなく、何故か悪戯を仕掛ける子供のような雰囲気を漂わせている。強いて云えば、どことなく嬉しそう。
「あんた、何か企んでる?」
「俺がですか? まさか」
心外だとばかりに傷があるほうの眉を上げ、アメリカ帰りを思わせる仕草で肩を竦めて否定された。瞳を覗き込んでみても虹彩に散らばる星が瞬くばかりで、目論見の内容までは読めない。
結局、溜め息をついて諦めることにした。絶対的保護者がユーリのためにならないことを、するはずがない。
重々しい扉が音もなく開かれ、その向こうから入ってきたのは服装で判断すれば女性のようだった。深緑で染められた細身のドレスだが、上と下が分かれたタイプだから身体のラインは目立たない。長袖は彼女の肌を殆ど見せず、きびきびした動きに年齢は感じさせなかった。それでも結い上げられた髪は白髪ばかりで、本来女性が持っていたはずの色はわからない。
近付くにつれ、その老婦人の顔が漸く見えてきた。反射的に立ち上がって、彼女の名を呼んでしまう。
「ヘイゼルさん!」
ギュンターに止められそうになるのをすり抜けて壇上を降り、ヘイゼルのところまで走っていく。マントが邪魔だけど、外す時間すら惜しかった。
「久しぶりだね、陛下」
目を細め、顔の皺を一層深くして、本当に嬉しそうに笑ってくれる。以前会った時は、まだ彼女は奴隷解放に奔走する一人の奴隷だった。だが、今はもう違う。
「綺麗なドレスだね、見違えたよ。突然でびっくりした」
「ドレスなんて着たのは、何十年ぶりだろうねえ。眞魔国に来るって、陛下と約束しただろう。魔王陛下に拝謁するってのに、前と同じじゃ失礼だからね」
ヘイゼル・グレイブスは別れの挨拶をしたときから数年経っているが、以前と変わらず健勝そうだ。ほっと息を吐くと、突然彼女がその場で跪き、おれの手を捧げ持った。
狼狽えて思わずしゃがみ込んだら、初めて会ったときのような態勢になってしまう。
「拝顔を賜り心から御礼申し上げます」
「や、やめてくれよ。言ったろ、腫れ物に触るような扱いは勘弁してほしいって」
顔を上げたヘイゼルが柔和に微笑む。
「変わってないようで何よりだ」
「そりゃたった数年で変わったりしないよ。あなたも元気そうで良かった」
肩の荷を下ろした彼女は、見た目こそ変わらないがやはり歳を取ったのだと感じさせる何かがあった。健康そうではあるが、これが老いというものなのだろうか。それは見ない振りをして周りに視線を巡らせると、ヘイゼルの両脇に居た兵士と、追いついてきたギュンターやグウェンダルまでもが途方に暮れた様子で立ち尽くしている。
ウェラー卿だけはその意味がわかっていて、困ったように眉を下げて耳打ちされた。
「ユーリ、英語になってます」
「ああ、そっか」
唐突に未知の言語で話し始めたせいで、驚いたのだろう。ヴォルフラムはヘイゼルと会ったことがあるから、長兄のように眉間に皺を寄せている。
「プリンスにも挨拶しなければならないね。あたしはビーレフェルト地方の親善大使なんだから」
ヴォルフラムのところに行く彼女から目を離さないまま、丁度一歩分後ろで笑みを崩さない男に話しかける。
「あんたが隠してたのってこれ?」
「ええ、早々にバレそうになっちゃいましたけどね」
「当たり前だろ。あんたのことくらいわかるよ」
「そうでした。すみません」
とりわけ悪いとも思っていないようで、笑顔のまま軽く肩を竦めてみせる。申し訳ないというより、楽しげな空気のほうが強く感じて呆れた。
十代の頃はコンラッドが格好良いだとか、爽やかな笑顔の好青年だとばかり思っていたが、おれが歳を取るにつれ子供っぽくなっているような気さえする。
彼なりの甘えなのだろうか。
そう考えると少し嬉しくもあるから、不満は一つもないのだけれど。
石造りの道を真っ直ぐ歩き、おれが一番気に入っている丘にヘイゼルを案内する。村の子供たちすら知らない場所は、コンラッドと二人でよく来ていた。
その道中は近況報告だったり、なんてことない話もあれば、エイプリル・グレイブスについての話もある。多くは知らないけれど、と微笑んだ名付け親の口から語られたのは、自然体のエイプリルの姿のようだった。
話が終わり目指していた場所に着くと、木々の葉は落ち、穏やかな風が枝を揺らした。
「どう、いいところだろ? って、まだ眞魔国にも来たばかりかな。温泉もあるし、ゆっくり観光していってよ」
「そうだね。有り難くそうさせてもらうつもりだよ」
目を細め、腰に手をあてて笑う。その視線がコンラッドへ向いた。彼女と最後に会ったときは、まだ彼は大シマロンの使者だった。
それなのに驚いたような気配も見せず此処まで来たことが意外なようで、予想通りでもある。
「ヘイゼル……いや、ベネラ」
この世界にいる今、彼女はヘイゼル・グレイブスとしてこの国にいるわけではない。彼女に向き合うと、榛の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「奴隷解放、おめでとう。本当はおれからあなたに会いに行きたかったくらいなんだ」
「ありがとう、陛下に言ってもらえると何より嬉しいよ。覚えてるかい、在るべきものは、在るべき場所へ。それは形があろうがなかろうが同じことなんだと思うね。だからあたしはほんの少し早くそうなるように、手助けをしたにすぎないよ。神族の、神族としての権利は、それぞれの神族のもとへ。そこにいるウェラー卿と同じさ。ウェラー卿の在るべき場所は陛下の元だった。ただそれだけのことだ」
唐突に話題に出されたコンラッドがおれの少し後ろで、驚いた気配をたてる。だがすぐに穏やかな表情で、いつも通りの笑みをその顔に浮かべているのだろう。
「そうかな」
「きっとそうさ」
そうだったらいい。真実は彼以外の誰にも、もしかしたら本人にさえわからないものかもしれないが、どうかそうであればと願ってしまう。在るべきものは、在るべき場所へ。
「眞魔国はどうなんだろう」
眞魔国の在るべき姿が、平和な日常を送る姿だったらいいのにと願ってしまう。おれにはわからない。本当にこれで良かったのか。攻め込まれて守っても、守りきれなかったときにどうなってしまうのか。そうしたときおれはどんな決断が出来るのか。多くの人を喪わないための、最善を選べるのだろうか。
「誰にもわからないよ。だけど陛下なら大丈夫だと思いたいね」
「ありがとう。前は云えなかったけど、おれ、……日本人なんだよ。日本は第二次世界大戦でアメリカに負けて、戦争放棄を宣言してからもう何十年も経ってる」
「……すまないね。あたしがこの世界に来て多くのものが変わってきた。今回のことも、眞魔国のことも含めてだよ。地球だけが、日本だけが何も変わらないはずがないと、今の今まで気付かなかったけれど」
小さく骨張った指に、手を掬い上げられる。憂いなどひとつもなく、軍国主義だった頃の日本ではなく今の日本を、おれを通して見つめているかのようだ。
生粋の日本人だと黙っていることも出来たけれど、そうしなかったのは、やっぱり日本もおれの一つのホームだから。誤解されたままでいたくなかった。
「陛下みたいな子が育つ国になったんだね」
郷愁を誘うかのような呟き。日本に生まれ、戦争の恐ろしさ、悲惨さを何度も教えられてきた。だから日本人の多くは戦争なんてなければいいと思っているだろうし、勿論おれも思ってる。この先ずっと、眞魔国にも日本にも、戦争のある未来が来なければいい。
「陛下なら大丈夫だ」
先ほどの言葉を、今度は確信に満ちた表情で告げられる。手を強く握られ、背筋が伸びた姿は、百歳超の老人には見えなかった。
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