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夜は深く沈み、星は変わらず瞬いている。電力のない眞魔国を照らしているのは、天高く黄金に輝く満月だった。
冷たく凍った大きな窓に、闇色の服を纏った青年は指で触れる。
数年前まで幼さを残す少年だった魔王は成長し、大人の色気を得て魅力を増していた。
眞魔国と大シマロンとの戦争が始まってから、もうどれだけの月日が経ったのだろうか。平和主義を唱え、どんな争いも話し合いで解決しようと奮起し、その手を出来る限り伸ばして来たのも事実だ。
成果は大きかったが、代わりに失ったものも少なくはない。
ダルコから眞魔国へ還り、コンラッドを連れ戻せたと思っていたのも束の間、彼を再び大シマロンに送らねばならなかった。
起爆装置にもなる箱の鍵を一度手に入れたシマロンが、容易く手放すはずがなかったのだ。様々な手順を踏み、ギュンターやグウェンダルのような重鎮さえ使いに遣ったが、その努力も虚しく終わってしまった。
元より、ウェラー卿とベラールの間で交わされていた契約は、大シマロンに身を置く代わりに、眞魔国と魔族に手出しは無用というもの。彼が戻ってきてしまえば契約不履行となり、停戦状態でしかなかった国同士の関係は悪化していくことになる。
そのため少しずつでも彼が眞魔国に還れるよう、話し合いの場を設けたが、結果は惨憺たるものだった。
箱の鍵を手元に置きたがる彼等は、それを取り戻そうとする眞魔国が『風の終わり』を自国から盗んだのではないかと気付いてしまった。箱と鍵を揃えるために鍵を要しているのだとこじつけて、戦争を仕掛けてきたのだ。
ゆっくりと息を吐き出し、ユーリは口唇を噛んだ。高い建造物もないため、遠くの光が僅かながらにも見える。
大きな窓から見える景色は、今や美しいだけではなくなっていた。
ずっと思っていた。共に歩を進めてくれる臣下がいれば、少しずつでも平和に近付くのではないかと。すぐには無理かもしれないけれど、手の届く範囲から。いつか少しずつ広げていけたらと。描いていたのは、絵空事でしかなかったのだろうか。
今は苦しくてもいつか平和に近付けるのだと諦めない自分もいる。それでも、期待してこんな想いを繰り返すほうが怖かった。
失うことを恐れて。喪うことを怖れて。何処で道を間違えたのだろう。今はそれさえわからない。
ゆっくりと扉が開いた気配がして、顔を上げれば窓硝子にコンラッドの姿が映っていた。閉めたドアの前に立ち止まり、穏やかな表情を作っている。
「ユーリ」
いつだって一度は訂正させる男が、今日は一度も間違えていない。そんな何てことない一つ一つが、酷く苦しかった。これまでと同様にしてくれていれば、この先も続くと思い込めたかもしれないのに。昨日までの日常が、明日も明後日も続くと思いたかったのに。
近付いた男がユーリを抱き締める。既に多くの兵士が戦地へと向かい、命を落としている現状。自身が引き金の一つになっていると知っていて、黙って見ていられる男ではないと誰もがわかっていた。それでも先延ばしにするために知らぬ振りをし、ウェラー卿の言葉にすら耳を塞いでいたが、それももう限界がきたのだ。
明日、彼は出征する。
背中に当たる温もりに瞼を下ろし、身体を包み込む太い腕に頬を寄せた。
「こんなはずじゃなかった」
絞り出す声で発したのは、それまで王が決して口にはしなかった弱音だ。泣き言など吐けなかった。吐いてはならないと思っていたのだ。今の今まで、口に出すつもりなどなかった。明日には戦場で闘う人に、言ってはならなかったのに。
「ごめん。力がなくて、ごめん。結局おれ、何も出来てない。何も出来なかった」
守護者の腕はユーリを弱くする。彼の前では素直になれた。寄りかかり、肩の力を抜けた。年齢相応の姿を見せられた。それがこんな形で表に出てしまうなんて予想外だったけれど。
平和を叫んでも、相手がそれを是としなければ意味が無い。話し合いの場を設けても、応じる相手がいなければ。そして、自身が望む条件ばかりで、相手を納得させるだけの説得力など無かった。
コンラッドを取り戻したいのも私情。戦争をしたくないのも自身の望み。箱の鍵を第一の望みとするシマロンが、頷くはずがない。
「必ず還ってきます」
目を開けてみれば情けない自分の顔と、辛そうに眉を顰めている保護者が窓に映っていた。まるでユーリの心の痛みを引き受けたかのように。その表情は泣きたくなるほどの温もりを、胸に落としてきた。
「ヨザックが言ってたんだ」
唐突に出た幼馴染みの名に戸惑っているが、気にせず続けた。
「あんたは、駄目だと踏んだらおれには笑うって。あの時……あの教会で、コンラッドはもう駄目だと思ってたんだな」
もう生きては戻れないと。死を覚悟してしまっていたのだろう。未来を諦めていて、それでもおれのために笑っていた。
喪失。絶望。僅かな希望さえ砕かれる感覚は、もう二度と経験したくはない。
「だけど今はそうじゃない。それが、あんたの本音なんだな」
こんな聞き方は狡いのかも知れない。彼を責めたいわけでもない。だが今は、こんな方法しか持ち合わせていなかった。
「はい」
真摯な眼差しを、彼の腕の中で回って直接見つめる。薄茶の瞳は、嘘を吐いていなかった。
「わかった」
胸に頬を押し付けて、自らに言い聞かせるために声に出す。
「待ってる」
本当は不安は大きい。死人の出ない戦場などない。多かれ少なかれ、必ず命を落とす者はいるだろう。先の大戦で激戦区に居た彼が、今回の戦でも確実に生き残っていられる保証など何処にもない。それでも信じたいと思った。彼の心を。
名付け親は傷があるほうの眉を下げ、困ったように微笑む。
「なんだか、悔しいですね」
「何が?」
「あなたは俺より、ヨザックの言葉を信じるんですね」
困るより、拗ねているのだと気付いた。まるで子供だ、と吹き出してしまう。
「違うよ。ヨザックの言葉を聞いたから、あんたを信じようと思えるんだ」
今という瞬間はどんな小さな事象でも、過去が積み重なって存在している。こうしてコンラッドを信じようと思えるのは、これまでに関わってきた沢山の人たちや、彼を知る人の話や、ユーリが彼と過ごしてきた全ての時間があるからこそだ。何か一つでも欠けてしまえば、この考えには至らなかったかもしれない。
「何にでも原因があって、結果がある。全部、あんたの言葉を信じるための『原因』だったんだよ」
信じることは、とても難しい。口だけならば簡単でも、一分の疑いもなく、心配しないなんてことはありえない。だけど、信じたい。大切で、漸く取り戻した男のことを。
「コンラッドが無事に還ってきたとき、おれは本当にあんたを信じられる。だから、信じさせてくれ」
彼の首に腕を回し、背伸びをして強く抱き締める。口唇を重ねることはない。ただ温もりを身体に焼き付けて、彼が還るまでの慰めになればいい。自身の温もりが、どうか彼にとっての、生に繋ぎ止める枷になればいい。
「必ず、生きて還ってきます」
ぎゅっと抱きしめ返されて紡がれたのは、誓いだ。誰より近くにいた男の言葉があるから、ユーリはこれからも強く居られる。
明朝には離ればなれになるとしても、全てが終われば還ってくる。そう信じるために送り出し、信じさせるためにコンラッドは行くのだろう。
約束を交わすように、互いに刻み込むように、真っ直ぐに彼の瞳を見つめた。
「ずっと待ってる」
どうか。
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