「すぐに追い付く」
そう言って、ゆっくりと去っていく男の背中を見詰めた。
再びこの手を握ってはくれないと、二度と逢えないと思っていたひとは、今まで確かに此処に居たのだ。そしてまた、追い付けば隣に並んでくれるのだろうか。
手に残る温もりを握り締めて、おれはまた前へ進む。
大丈夫だ。また会える。そう、信じていれば。
故郷マ
舞踏会を終えて部屋に戻ったら、突然後ろから抱き締められた。首だけで振り返れば予想通りの男。
ずっと黙っていたと思っていたけれど、何かあったのだろうか。ひしひしと伝わる不安はわかるが、その理由がわからない。
「なにかあったのか?」
「あなたと踊るのが、俺であれば良かったのに」
嫉妬次男
手に入れてはならないひと。求めてはならないひと。
欲することなど許されないというのに笑顔を与えられる度、名を呼ばれる度、貪欲になっていく自分がいた。
「コンラッド?」
向けられた黒い瞳に誘われるように、その身体を抱き締めてしまう。
慌てる彼を離さずに口の中で呟く。今だけは、どうか。
どうか。
「どうしたらおれのものになるんだよ」
声は絞り出されて、苦しませたいわけじゃないのにと手を伸ばした。俯いているせいで前髪に彼の瞳が隠れて見えなくなっていた。
「俺のすべては、あなた1人のものです」
首を振って否定され、どれだけ言葉を募っても信じてはくれない。この心の内を見せてしまえたら良いのに、俺にはその術さえ持たなかった。
もどかしい
冷えた口唇を触れ合わせ、もう此処に彼の心はないのだと涙が零れた。
人間のように老化して皺だらけになった細い身体。ただ一人の主さえ喪ったこの世界で、彼との約束を果たすために俺は生きなければならない。
だから今は赦して欲しい。今一度、その名を紡ぐことを。これで最期にしよう。この名前は、あなただけに向けるものだから。
「ユーリ」
あなたがいない世界では、この名前に意味などないのだから。
最後の指が離れ、ゆっくりと距離が広がっていく。
海に棲むコンラッドの友人達に運ばれて。彼は気付いただろうか。
還るべき場所に戻ることを約束した腕は、かつて彼のものではなかったということに。彼は何かを想っただろうか。
漸く触れ合えたそれが、左手だったことに。
雲間から差し込んだ光が、ユーリの姿を照らしていた。
特に意味のない、そういう現象もあるということの一つだというのに、彼が関わるだけで途端に特別な意味を持つ。
グラウンドに立つ彼は眩しげに目を細めているだけで気付いていないが、あぁ綺麗だと、単純に、そう思ったのだ。
レンブラント光
優しい笑顔が好きだった。どれだけ想ってもきっと、戻っては来ないけれど。
胸元の魔石を握ろうとして、さっき投げ捨てたことを思い出した。自分でも気付かないうちに、あるのが当たり前になっていたのだろう。
空白が重くて目を閉じる。コンラッドの、優しい笑顔が好きだった。
突然のことで、最初は状況がわからなかった。
いつもおれを護ってくれる逞しい腕で、強く抱き締められて。爽やかな笑顔を浮かべている男が発する声は震えて痛ましく、此方まで苦しくなってくるようだ。
「あなたにすべてを捧げます。ほんのひと握りでいい、あなたをください」
ほんの一部でいいから。
目の前の大切な人は、大粒の涙を黒曜石の瞳から溢れさせている。
自らの手で拭おうとしたけれど、赤が彼の顔を汚してしまった。この命が尽きるとき、彼が居てくれることがとても幸せだ。
「ずっと、お慕いしていました」
赦されぬものとわかっているけれど、これが最期ならば。
「あなたが好きです」
真っ直ぐな薄茶の瞳で、彼は唇に乗せた。嘘ではなくても、おれの想いは彼と重ならない。
結局のところ、この男にとっておれは魔王ユーリでしかないことも、名付け子でしかないことも、わかっていたからだ。
「うそつき」
ずっと見ていたんだ。そのくらいわかるよ。
うそつき

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