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例えば、踏みしめた草の音を聞いて。吹いた風に頬をくすぐられて。遠くの山で鳥が鳴き、綺麗な川で魚が泳ぐのを見つめてきた。
今は、透明な海を眺めている。
さくさくと、足跡を付けて歩く。
白。
波打ち際に付けたへこみは、すぐに波にさらわれてしまう。果敢無いとは、このことを云うのだろうか。柄にもなくセンチメンタルなことを考えて、少年の口元に笑みが漏れる。
ユーリとコンラッドは、カーベルニコフの海辺に来ていた。
リゾート地のような美しい海の傍には、アニシナの城がある。そこの一部屋を借りて、旅行をしたいと言い出したのは、ユーリだ。彼はまだ国の方針を、決められずにいた。
最高統治者が指示すれば、すぐにでも事を進められるだろう。だが同時に、彼がいなければ足踏みを繰り返すばかり。下手をすれば、国家間の問題は悪化していく可能性すらあった。
戦争を認めるか、コンラッドをシマロンに送るか。二つに一つしかない。
「……陛下」
「陛下って呼ぶな、名付け親だろ」
二歩ほど後ろをついてきていた男が、沈黙に耐えかねて主を呼んだ。
日常。
変わらないはずだった。変わらず流れていくはずだった、日常。何気ないやりとり。いつも通りの『間違い』を、いつも通り指摘して、名を呼び直される。それで良かった。それが良かった。
たったそれだけの時間が幸せで。同じように流れていく、ありふれた日々が、優しくて。ずっと続いていくものだと、勘違いをしてしまった。
まだ眞魔国に慣れず、新米魔王と称していた頃。カーベルニコフの海岸で、空を映したトルキッシュブルーが、穏やかに揺れていた。きらきらと、陽光を反射させる水面を見つめた日を、憶えている。
船の上から覗いた海と、離れた浜から見つめた海の色は違っていて、ほんの少しだけ驚いた。
後ろから回された腕も、寄り掛かった時に背中に触れた彼の体温も、忘れてはいなかった。
「また来ようって、言ったもんな」
グウェンダルと共に、偽者や魔笛を探す直前。
広がる海を見詰めながら、何気なく交わした約束は、彼の中で失われてしまっただろうか。確認するように告げ、足を止める。一歩遅れて足音が止んだ。
あの後は色々な騒動が重なって、再びこの地を訪れる余裕がなくなってしまった。だから、二人で海を眺めるのは、まだ二度目だ。
砂を踏みしめる音がして、太くて長い腕がユーリの身体を閉じ込めた。彼のものとなった左腕は、右と変わらず温かい。
恋人に対する情を、伝えるものではないけれど。親が子に与えるような、無条件な愛情。声も出さず、言葉はないが、彼があの日の約束を憶えているのだとわかった。
「ユーリ」
「うん」
一度手離してしまったから、もう無くしたくないのは本心だ。だが、そのために多くを犠牲にする選択など、したくはなかった。
「本当はさ、わかってるんだ」
都合のいい展開など、期待してはならないのだと。期待するくらいなら、もっと前にすべきことがあるだろう。
ユーリは精一杯動いてきた。戦争放棄の法律を定め、武具を捨て、平和を説いて。誰も悲しまない未来を作り上げようと、奮闘した。
だが、不可能な事柄は、存在する。
「シマロンに、行って欲しい」
人質になれと、言いたくはなかった。一人の自由と大勢の命。天秤になど掛けるものではない。
「あなたのためなら、どんなことでも出来ますよ」
「……知ってる」
知っているから、せめて己の口からは言いたくなかったのだ。けれど、どうしてだろう。背後の男に、悲壮感はない。
「ユーリ、俺はね、嬉しいんですよ」
「なにが? 眞魔国から離れたかった?」
「違います。あなたに命じられたことならば、どれだけ離れていても、ユーリのためと思えるから」
だから、嬉しいのだと。
莫迦な男だ。だけど、そんなところがひどく愛おしい。
それは嬉しいんじゃない。寂しいっていうんだ。
こんな男だから、自ら手放すと言いたくなかったのだ。
どうして彼じゃなければならないのかと、責めた日もあった。どうして周りで悲しみが連続するのかと、悩んだ日もあった。だが、彼じゃなければ、国の誰かが同じ目に遭ったのかもしれない。その家族が、悲しみを背負わなければならなくなったのかもしれない。それがたまたま、自分の傍だっただけなのだと。
そう行きつくのに、長い時間が掛かった。本当は、割り切れてはいないのだろう。だが少し前までただの高校生だった彼に、それを強いるのは酷だ。
大切だから、護りたかった。幸せだから、永遠を願った。ずっとずっと、続いて欲しかった。けれど今は、それが叶わないというのなら。
「約束を、してくれないか」
だからこれは、この別れも。いつか、思い出して笑える日が来ると信じるための、悪足掻きだった。
腕の中で、顏が見えないと判っているから、口に出来た。もしも対面していたら、情けなくて言えなかっただろう。
胸に回された彼の手を、離れないように掴む。
「また、此処に戻ってくるって」
コンラッドの還る場所は、必ず眞魔国だと。
「わかりました。必ず、どんな形でも、還ってきます」
俯いていた少年に、保護者の顏は見えていた。時折爪先を掠める小波に映る、今はその美しさが恨めしい。
きっと彼の表情なら、波など無くてもわかっただろう。
「馬鹿だな。どんな形でもじゃなくて、生きて還って来てくれなきゃ意味ないだろ」
「そうでした」
ウェラー卿の胸に寄り掛かり、目蓋を閉じる。今は、この耳障りのいいテノールだけを信じていたい。
此処に。
ウェラー卿コンラートの還る場所は、ユーリの傍だと。
信じたかった。
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