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初めて抱き締めた、温もりを。
かたく握りしめた小さな手を。
触れた柔らかな漆黒の髪を。
今も瞳を閉じれば思い出せる、その笑顔を。
俺は生涯忘れないだろう。
キングサイズのベッドに横たわった老人は、活発な少年だったころの面影はもうない。
魂は此方の世界のものといえど、地球で作られた身体は人間と同じように歳を取っていった。いつだったか、地球の魔族の寿命は人間より少し長生きなだけという話を聞いたことを思い出す。
ユーリという最高の王を戴いてから、もう八十年近い時が流れていた。
次代魔王も決まり、彼が王の座を退いてからもう随分経つ。自らの力で座ることさえ叶わず、ただ、ゆっくりと生命が閉じるのを待つその姿に胸が痛んだ。
人間の身体はどうしてこんなにも儚いのだろう。
彼が横たわるベッドの周りでは、グレタやギュンター、ヴォルフラムにグウェンダルが見守っていた。
体温を移すように皺々で、細く小さくなった手をそっと包み込む。
生まれたところを見届けたひとの、今度はその生を終えるところまで見なければならないのだろうか。俺の命を引き替えに、彼の命を長らえさせることが出来るのなら迷わずそうした。
だけど、それが出来ないのなら。独りきりで逝かせたりはしない。
地球に渡り、彼に出会えたことで、すべてが光に満ちた。
後悔も空虚もこの血を呪ったことも、未来への希望に変わって。
老いていく愛しい人を想うとき、誰に言わずとも誓った。
王と臣下以上の関係を持つ前から、漠然と片隅に置かれていた心のうち。彼を喪ってしまえば、俺がこの世に生きる意味はない。
ジュリアを喪い自棄になっていた自分を救ったのは、誰でもないユーリただ一人だ。
「コンラッド」
囁きが俺の名を呼んで、一言も漏らさぬように彼の口に耳を近付ける。
手に力が込められ、優しい温もりが手を握り返してきた。
「あんたに、頼みがあるんだ」
これは、コンラッドにしか出来ないことだよ、と。
泣きたくなるくらい優しい声音で。
だけど泣いたりはしない。だってそうだろう。どこにいても、俺はあなたの傍で、あなたを守り続けるから。
「はい」
この人の頼みならば、どんなことでも聞いて差し上げたい。
俺のために紡がれる言葉の全てを飲み込んで、共に眠りに就きたい。
「おれの愛した国を、あんたが見届けて」
内緒話のように、悪戯を仕掛ける子供のように、無邪気に笑って。
「おれはもう、見れないけど。コンラッドの寿命が尽きたあと、あの世で逢えたら、この国のことを話して」
それがどんなに酷いことかと、彼は気付いているのだろうか。
彼がいなくなった世界で、彼がいない時を生き続け、彼がいないのに回り続ける人々をこの目で見ることが、俺にとってどれだけ残酷な生なのかと。
「頼まれて、くれるか?」
力強ささえ感じるほどの、闇色の瞳に捕らえられる。
あなたは、俺にあなたの後を追うことさえ許してはくれないのですか。
自らこの命を絶ち、あなたの傍にいることすら。
いっそ命令と言ってくれれば、拒む隙を与えないのに。
頼み、だなんて、俺が断れるはずがないのに。
「……はい」
ふわりと、まだこの国の王になったばかりの頃を思わせる笑顔を、その顔に浮かべる。
「ありがとう」
何よりも美しく、気高く、誰よりも優しい、俺の主。
愛しいひと。
やさしく頭を抱かれ、彼の匂いに包まれる。
俺だけじゃなくこの場にいる者へ、もう一度、笑みながらありがとうと口にして。
へいか、と息だけの呼び名に、変わらぬ言葉で返されて。
「ユーリ」
逝かないで。
最期の吐息さえ感じられる距離で、彼はシブヤユーリとしての命を終えた。
ジュリアの時は泣けなかった。
遺体すら残されず、柩には彼女が身につけていた洋服や本が入るだけの埋葬。その死を認めるには不十分すぎるほどの弔い。
始まる日常には彼女の姿だけがなく、ぽっかりと空いた穴を埋める術も気力もなかった。出会ったことに後悔し、絶望した。
なにもかもが空虚で、色のない世界になっていたのだ。
だけど、ユーリは違う。
力をなくし落ちていった腕はベッドに受け止められ、そっと顔を見れば微笑み眠る彼がいた。
繋いだままの手からは急速に体温が引いていき、もう握り返してはくれない。
潤いを失い白くなった髪にそっと口付ける。愛していた。
グレタがすすり泣く声が聞こえて、ああ、この人はもう戻ってはこないのだと実感する。 細く吐き出した息が震えて、気付けば頬が濡れていた。
泣くことは、死した者への別れの儀式として大切な行為なのかもしれない。
そっと、涙に混ぜて哀しみを流すために。
老いの緩やかな魔族の血は彼との再会を伸ばすけれど、約束のために、生きなければならない。
最初の再会は、俺がユーリを待っていた。
これからは、天国という楽園で、彼の心が俺を待っていてくれると信じよう。
どれだけ離れようとも、還るべき場所は彼の元しかないのだから。
月日が経ち、笑って会えるように。
この美しく広大な大地を変わらず保ち、彼が愛した穏やかで平和な国を、俺が動きを止めるその時まで見届けよう。
初めて抱き締めた、温もりを。
かたく握りしめた小さな手を。
触れた柔らかな漆黒の髪を。
熱く抱いたその身体を。
甘いあなたの声を。
二人で重ねた幸せな日々を。
今も瞳を閉じれば思い出せる、その笑顔を。
俺は生涯忘れないだろう。
また会う日まで、今はひとときのお別れだ。
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